2018-06-12 第196回国会 参議院 農林水産委員会 第22号
当時の食料流通は問屋資本が担っていました。 問屋資本による前期的な取引を放置できなくなり、政府がその流通に介入し、主食である米については一九二一年に米穀法、副食である生鮮食料品については一九二三年に中央卸売市場法が制定されました。市が施設を整備し、そこに多数存在した問屋を、荷受け会社、今でいう卸売業者と、仲買人、今でいう仲卸業者に整理統合して収容しました。
当時の食料流通は問屋資本が担っていました。 問屋資本による前期的な取引を放置できなくなり、政府がその流通に介入し、主食である米については一九二一年に米穀法、副食である生鮮食料品については一九二三年に中央卸売市場法が制定されました。市が施設を整備し、そこに多数存在した問屋を、荷受け会社、今でいう卸売業者と、仲買人、今でいう仲卸業者に整理統合して収容しました。
私なんかが伺っているところを見ると、前近代的な問屋資本的な形で従属されている中小メーカーが多いというわけですが、大きいメーカーは大きいメーカーであろうと思いますけれども、特に零細なメーカーが多い中ですから、その辺の関係はどうなっているんですか。
それから、戦前には多分問屋資本との対決という意味で販売事業、こういうものでつくられて、戦後、水協法を通して民主的な組合運営というような要素が入ってきた、こういうふうに私は理解をしておるわけでありますが、その後、沿岸遠洋を問わず、漁村、漁業経営の異常な変化の中で、いまやはり漁民とは何か、こういう問題が問われておると思うのです。
生産力の増大による利潤の増高も、生産者の懐へは入らないで、前貸資本に対する高率の利子として商業(問屋)資本などに帰属してしまうからである。こういう場合には、産業利潤から商業利潤が分割されるのではなく、利潤そのものは問掛(商業)資本がまったく掌握している。ここに前期的商業資本といわれるゆえんが存在する。」ということで、歴史的な経過を書いて流通過程についても触れております。
個人借りその他の、月三分というようなきわめて悪条件の前商業資本的な問屋資本の跳梁ばっこが、いまだ現時点においても漁村ではあるわけです。そういうときに、現状がどうなのか、したがってここで法律を改正するならば、それに一体保証制度をどう適用するかということは、科学的な現状分析の中から、私は生まれてこなければならぬわけで、そういう実態把握の資料がない。
日紡なら日紡というものが一貫して商社まで握ってしまうという、問屋資本というものがなくなるという形が出てきている。従ってそういう系列化の傾向というものは、系列からはみ出たものの職業訓練がアウト・サイダーになって、なかなか困難な面も出てくると思う。そうしますと、それらの中小企業の共同化ということはずいぶんわれわれも前から唱えておるが、なかなか共同化が進まない。
そこには問屋資本という商業資本が入っておったのです。ところが最近のものを見ると、あのテレビでも見るように、すでにわれわれの衣服の一番最終段階、商品になった段階まで、メーカーの、いわば独占資本の名前がついてきているのです。結局メーカーというものが商社まで一貫して指導する形をとってきているということなんです。こういう形はやはり日本の労働政策をやる上に、今までと違った形があるのではないかと私は思う。
金融は、この問題を私どものほうで審議いたしました場合、できるだけこれは運転資金に廻して行くということが大体この信用基金の貸出しの主体をなしておりますので、この場合漁船にも貸し得るという項目があるわけではございますが、当時大蔵省なり或いは日本銀行等との話合におきましても、できるだけこれは本当の中小漁業者、一般地方銀行と直接従来とも取引のできるようなかた、できておるようなかたは御遠慮を願つて、今まで問屋資本
他方我が国の中小企業は、その大部分が大企業の下請負工場であるか或いは問屋資本に隸属するという立場に立つておるのであります。大企業は実にこれらの中小企業の犠牲の上に寄生して発展し、而も日本経済の生産力全体から見まするならば中小企業が重要な役割を果しておるということを忘れてはならないのであります。
○風早委員 一方において問屋資本の関係を見ますと、やはりその組織もまた機能も非常に崩壊しつつあるように、見受けるのです。私ども、中小企業庁にも参りまして、実際問屋関係の実態はどうなつておるかということを聞きに行くのでありますが、目下まだ調査中といわれて、いまだわれわれの手元には資料は来ておらないのでありますが、目下まだ調査中といわれて、いまだわれわれの手元には資料は来ておらないのであります。
○風早委員 私は今、これは中小企業庁のお考えと非常に近い考えになるかもしれませんが、この問屋資本の役割といつたものは、今これを全然つぶしてしまうわけには行かないと思うのです。
この一例をもつて見てもわかりますように、沿岸の零綱漁民、あの力のない零細漁民が、今日辛うじてマル公によつりて支えられている魚價すらも買いたたかれるということになつたならば、漁民の生活の困窮というものは今後さらにはなはだしくなつて行くということは明らかでありまして、これは問屋資本であるとか、あるいは仕込み資本であるとか、そういう中間の商業資本等がますます横暴跳梁をほしいままにいたしまして、そうしてこの